歴史は勝者や支配者が書くもの
私たちはGHQ占領下から始まる戦後の日本で生きています。戦争に負けたことから戦前の日本の歴史は誤っていたものと断定され、長くそういう意識を植え付けられてきました。
有名なWGIP(War Guilt Information Program・ウォーギルトインフォメーションプログラム)により、「日本は世界に対して戦争を起こした戦争犯罪国である」ということを日本人に再教育する計画は、何も秘密でも陰謀でもなく、実際に我が国に政策として行われてきたもので、文書で残っている歴史上の事実です。
そしてそれはマスメディアなどを通して、現在もまだ推し進められています。
私は歴史を中学校で学んだ際には気づきませんでしたが、自分が歴史を教えるようになって違和感を感じる内容が多くあることに気づきました。
・日本の始まりや成り立ちの部分が非常に薄く書かれていて、特に色々な新しい発見がされている縄文時代の事は本当に簡単に記述されていること。これでは日本と言う国がどういう価値観から成立したかがまるでわかりません。
・奈良時代の貧窮問答歌に始まり、歴史の全編にわたって日本の政治権力はとにかく民衆にひどい事をして支配をしてきたというストーリーが読み取れるつくりになっていること。欧米の絶対権力と民衆の対立構造のような単純な史観(階級闘争史観)で書かれている歴史がそこには見て取れます。これは支配者を革命で倒す必要があるという思想です。
・日露戦争で欧米列強から我が国を守った秋山兄弟の話などが書かれていないこと。また国際連盟から脱退したいきさつやABCD包囲網に対してなぜ日本が戦争に追い込まれていったのかの動機が十分に書かれていないこと。日本が欧米列強によるアジアの植民地化に対抗したことを厚く記述することは昔から禁句になっているようです。
挙げていけばきりがありませんが、これらは実は当たり前と言えば当たり前のことです。
自国の歴史を正しく語り後に残していくのはその民族の独自の主権に基づく権利ですが、敗戦国が戦勝国の悪い点を歴史に記述することなどはできないということなのです。
「歴史は戦勝国や支配者が書くもの」だというのが残念ながら真実です。
しかし真実が何であったのか、それについて知る事は幸いにも可能です。
戦後からごく最近までは情報は一部の支配者とマスコミに独占されていましたが、インターネットとSNSによって、情報の統制には限界が生じて私たち一般大衆にも真実が漏れ伝わるようになったからです。
だからこそ、私たちは冷静に「本当はどんな事があったのか」を振り返らなくてはなりません。
東京大空襲と原爆投下
最初に申し上げておきますが、以下は政治的な主張ではありません。あくまで歴史を社会科学として考えてみたときに浮かぶ素朴な疑問です。
第2次世界大戦が終了する時にアメリカは広島と長崎に原爆を投下して、更に日本の主要な都市を空爆しました。東京大空襲では一夜にして10万人以上の人々が死亡しました。
戦後しばらくは、というよりごく最近まで、「終戦を早く迎えさせるためには仕方がなかった」というような事をアメリカの一部の人は述べ、
更に我が国のマスメディアも「日本は悪い事をしたからそんなことにならないように今後は自粛していこう」というような論調をずっと繰り返してきました。
しかし国際法上も、過去の戦争の歴史を見ても、戦争は軍隊同士が戦うものであって無防備に暮らしている民衆を無差別に攻撃するというような行動は「戦争行為」ではないとされています。それは明白に戦争犯罪です。
最近は、そういう主張がわが国でも多くの人からされるようになりました。東京裁判ではインドの判事などがわが国を守る言論を展開したのが有名な話として残っていますが、ようやくわが国でも気づく人が増えてきたということかも知れません。
そして私たちがそういう視点を持って見てみると、アメリカ、というよりアメリカの民主党政権は、中東諸国でも同じようなことをずっとやっていることに気が付きます。
しかしテレビだけで情報を得ている人たちは、「〇〇〇が悪いから国際世論によって制裁が加えられて、自由が守られた」というような論調を、メディアによって東京大空襲の話などと同様に無条件に信じてしまっていたりします。
こういう行動についての反省や何万人もの死者が出たことのついての戦争犯罪の審査は、もちろんそれを行っている側からは決して行われることはありません。
繰り返しになりますが、「歴史は勝者の歴史」なのです。
たとえば大量破壊兵器の保有を理由に大規模な空爆がイラクで行われ、一般人を含む多数の人々が死亡して、フセイン政権も転覆しましたが、結局そのような兵器は発見されませんでした。しかしその事実は歴史の中にほぼ葬り去られています。
そして未だにフセインは極悪人の独裁者だったというイメージで扱われています。
正義の対義語は?
ここで歴史を勉強する時に私たちがしっかり意識をしていないといけない事があります。
いや歴史だけでなく、私たちが生きていく際のすべての場面で頭に入れておいた方がいい鉄則かもしれません。
それは「正義の対義語」は「悪」ではないという事です。
もちろん正義を主張する一方の側からすればそれは「悪」という事になるでしょう。
世界を自分たちの植民地にして、より欧米列強の中核にいる権力者たちがより暮らしやすい場所にしていくという思想からすれば、私たちアジアの民族が彼らに逆らう事は「悪」という事になるのだと思います。
しかしアジアの民族にはまた別の理屈があります。それもまた「正義」なのです。
SF映画や戦争映画では、一方的な悪者が侵略をしてきてそれに対抗する正義の味方が悪を滅ぼすようなストーリーがほとんどですが
実際の戦争はそんなことでは起こりません。そういう事はむしろ支配者が民衆を更に強く支配するような絶対的な権力を持っている場合に起こるもので、
戦争のように力の均衡がある場合には、「正義」対「正義」でなければ戦争を起こす必要が生じないからです。「悪」がいきなり攻めてくるという情報があるとすれば、それは完全に情報統制の一環としてのプロパガンダです。
第二次大戦当時我が国の政治中枢を後半半ば動かしてしまったメディアの権力の背後にはおそらく欧米の国際金融資本の権力が及んでいたのだと思いますが
国民はアメリカ軍を「鬼畜米兵」と信じて「悪」と定義づけてしまっていました。
私は、実際には冷静な戦力の比較や上手く終戦へとソフトランディングさせるための議論があったはずなのに、こういう民衆扇動によって戦争を終われなくさせたというのが実は真実なのではないかと、最近の騒動がいつまで経っても終結しない事と比較して考えています。
戦争は「正義対正義」で起こるのだとすれば、相手の正義と自分の正義を冷静に比較してお互いの譲歩できるラインを決めることができれば、戦争はその瞬間に終了します。
すべての間違いは「どちらかが全面的に正しい」と信じてしまうことから起こるという事を、もう一度考えてみることが大切だと思います。
今後も皆さんのお役に立つ情報をアップしていきます。