【人を動かす力】なぜ劉邦と家康は天下を取ることができたのか?

人を動かす力

 私たちは一人一人が独立して人格を持っています。

親子でさえ、親と子どもは別の人格を持ち独立しているので、無理に親が子どもに言う事を聞かせようとしてもそう簡単にはいきません。

これはお子さんを持っている方なら、だれでも思い当たる節があるかと思います。

他人ならなおさらのことです。他人を自分の思うように動かすことなど、基本的には不可能です。

 しかし政治を行う人というのは、一定の施策を人々に了解してもらい他人に行動を促すというのが基本の活動になるので、どうしても人を動かすという事が必要な場面が出てきます。大変な仕事だと思います。

今回は歴史上の人物が、どうやって他人を動かしてその結果世の中を動かして民衆を導いてきたのか、そのことを考えてみたいと思います。

どう考えても項羽の勝ちは約束されていた。

 項羽と劉邦の話は大変有名な話で、ご存じの方も多いかと思います。

項羽は、漢の国を創設した劉邦と天下を争って敗れた楚の武将です。

 彼は最初、始皇帝で有名な秦を滅ぼすための軍を率いて一勢力を築いた叔父の項梁の勢力を引き継ぎ西楚の覇王を名乗りました。

 そして次第に勢力を拡大していきます。圧倒的な軍事力を持ち一時は天下を支配するのは時間の問題かという所までいきます。

 項羽は名門の出身で、ただ武勇に優れ勇猛であっただけでなく、部下に対しては優しく、感情の量が大きくて、人を引きつける力を持つ武将だったと言われています。

包容力のある貴公子と言ったところでしょうか。

 そのため部下の統率力は高く、彭城の戦いでは、劉邦の率いる56万人の連合軍に、たった3万人で勝利したという記録が残っています。

 一方対する劉邦(「漢」を興した高祖)は、旗揚げをした時にはすでに40代だったと言われています。

 もともとは地方で低い官職についていましたが、あまりまじめに仕事もせず、不良グループとつるんで遊んだりしながら暮らしていた一庶民に過ぎませんでした。

「劉兄貴」みたいな感じで呼ばれていて、地域では結構嫌がられていたみたいです。

 その証拠に劉邦は天下をとってからも出身地(豊邑)のことを思い出すのが辛かったようで、あまりよく思っていなかったという話もあります。

 そして旗揚げ後も劉邦は、項羽との戦いで連戦連敗を繰り返し、負けては逃げての連続でした。

 そして、逃げる際には部下をののしったりして、あまり人格的に尊敬できるというようなタイプでもなかったようです。

 このような話を聞くと、どう考えても項羽の勝ちは約束されていたように思えます。

大逆転の秘密は?

 しかし項羽は、最終的には急速に勢力を失って劉邦の漢に敗れてしまいます。 結局劉邦が天下を取り漢(前漢)を興します。

劉邦のこの前漢は中国を表す言葉「漢」の元となり、「漢字」や「漢語」はこれに由来しています。

 一方項羽の最期の時に述べられた「四面楚歌」の言葉は、現在も周囲が敵ばかりで助けがないことを表す言葉として使われています。

予想に反してびっくりするような結末です。

 そんな状態まで項羽を追い込んでしまった理由は何でしょうか。

何が、圧倒的な力を持っていた項羽に起こったのでしょうか。

 その理由は実は本当に単純なことでした。

それは「不公平」です。項羽は有能な部下を適正に評価できず、身内に甘く有利な論功行賞を行うなど、あまりに不公平な人事を行ってしまったと言われています。

 彭越、英布、陳平といった能力のある部下たちに次々に見放されて去られ、ついには、非常に優れた宰相の范増を自ら信じられずに追放してしまいます。

 さらに、韓信という天才軍師が自分の部下にいたのにその能力に気づかず彼を正しく用いることができませんでした。

 項羽の下では全く認めてもらえなかった韓信は、劉邦の下に走りました。

 結局、この韓信の軍事指揮能力により項羽は敗北に至ってしまったのです。

 韓信は「背水の陣」の戦法を使って漢を勝利に導いたことで有名な漢の軍師です。

不公平に鈍感であることは非常に危険

 人は他人に何か嫌なことをされたとしても「そんな奴もいるさ」と我慢してしまうことがあります。

 たとえば劉邦のように、悪さをしても「えへへ」という感じで愛想が良く、すぐに自分の非を認めるような人間は、何となく憎むことができません。

 ただ、劉邦は人の話を聞くときは、びっくりするくらいに一生懸命耳を傾けて全身で聞いて、良い内容のことについてはすぐ取り入れたそうです。

また、自分の頭脳や能力に全く自信を持っていないため、優秀な人の話はとにかく聞いて人を信頼して任せていこうという姿勢が常にあったようです。

 でも人は、他人の行状の悪さなどに比べ、自分に対する不公平な扱いについては敏感で厳しい判定を下すのが普通です。

 たとえばレストランで、「隣の席にはカレーライスがすぐ出されたのに、自分の席には少し出るのが遅かった」というくらいのことで、気の短い人であれば、席を立って帰ってしまうということさえあります。

 そうです。不公平を笑って許せる人なんて、実際にはほとんど存在しないのです。

 だからこの世を生き抜いていく上で、素行が悪くても憎まれないことはありますが、不公平に鈍感であるということは極めて危険なことだと言わねばならないのだと思います。

 項羽は貴公子であったことに加えて、自分の能力が非常に高かったことから、残念なことに他人が不公平に対して持つ不満を軽視していたのではないでしょうか。

 また感情が豊か過ぎたため、身内への想いが大きくなり過ぎて偏った判断をしてしまうようになっていたのかも知れません。

劉邦は不公平の効果の怖さを放浪生活の中で身をもって知っていたのでしょう。身一つでやくざ暮らしをしていた劉邦にあるものはその人間的魅力だけであり、その中の一番大きなものとして「誰にでも同じように対する」というものがあったように思います。

他方項羽は不公平の効果の怖さに気づくことができなかった。だから天下は劉邦に転がり込んだということでしょうか。

公平の威力

 この教訓を逆に見ると、公平をどんな時も貫くことができれば、人は必ずあなたを評価してくれるということが言えると思います。

 意外に公平を損なっていても自分で気づいていないことはよくあります。

 たとえば、全く同じことを言われても、感情的に嫌な感じで言ってくる人には厳しく対応するのに、ニコニコ微笑んで下手に申し出てくる人に甘くなるなんてことは、あって当たり前です。

 でも劉邦の凄さは、そういうことをお構いなしに、「良いことは誰が言ったとしても『良い』」という判断をできたと言われているところです。

 韓信に「あなたは項羽より勇敢ではない」と評価された時も、別に怒りもせず「その通りだ」と言ったとされています。

物事を客観的に見る能力が非常に高かったのでしょう。だから公平な判断をすることができたのです。 ここが、常人とはちょっと違ったところであったように思います。

周りに人が加速的に集まってきたのはこのあたりに秘密がある気がします。

子の仇であっても公平な扱いを続けた徳川家康

 同じような話は、江戸幕府を開いた徳川家康にもあります。

 家康は自分を生の人間というよりも、人の上に立つ「不自由に拘束された存在」と割り切っていた感があり、そのことが彼への忠誠を誓う人間を増やして行った原因だと言えるような気がします。

 実は家康の長男は、二代将軍秀忠ではありません。

 家康の長男(嫡男)は松平信康という武将で、大変能力の高い息子でした。

ただ少々気が荒いところがあり、行いに問題がありました。

 それが信康の正室の父である織田信長に知れてしまい、当時敵対関係にあった武田家との関係への疑いも生じてか(この辺りは諸説争いがあるところです)、家臣の酒井忠次は信長から弁明をするように求められます。

 けれどもその際に酒井忠次は、むしろ積極的に信康の問題点を信長に訴えたとされています。

 このことが決め手になり、結局家康は信長からわが子信康の切腹を示唆されます。 そして追い詰められて家康は泣く泣く信康の切腹を認めるに至ります。

 ところが、家康はわが子の死を招いた原因になった酒井忠次をその後も重要な家臣の一員として扱い、処分を行いませんでした。

 信康の死は家康個人の私的な問題で、徳川家の柱石である酒井忠次を公的に処分するのは公平な措置ではないと判断したためだと思いますが、

 だからと言って、およそ人間のなしうることとも思えません。この世界には辛い事はたくさんありますが、こんな辛い事に耐えて公平を貫くなどと言うのは、人の想像をはるかに超えてます。

 これについてはいろいろなとらえ方があると思いますが、少なくとも部下は「この人はみだりに家臣を殺したりしない」と思ったことだけは確かでしょう。

 そういう気分が家康の周りに集まり、結局300年続く徳川幕府を打ち立てさせた原動力になったのだと思います。

 これと対照的に、家康と関ヶ原の合戦で戦った石田三成は、一言でいえば「正義の人」という人物像がぴったりの人でした。

豊臣秀吉の残した子である豊臣秀頼を、頑なに守ろうとして、豊臣政権を、本気で家康の(三成から見た)謀略から守ろうとしていました。

 彼は間違っていると思えば、自分の仲間であろうがなかろうがお構いなしに正しい事を理論的に主張して曲げないところがありました。

だから少なくとも、豊臣政権への忠義という立場からは、公平を理念として抱いていたと思われます。

 ただ彼の頭の中にあったのは、民衆が本当に実質的に公平なのかどうかではなかったのかもしれません。

そして一生懸命やればやるほど、明らかに人気を失っていき、結局たくさんの敵への寝返りを受けてしまい敗北します。

 この点、子どものころから人質生活を余儀なくされ、世の中の厳しさを見続けてきた家康が、本当に人々に公平な扱いを考えて政治を行ったのとは、ちょっと違っているような気がします。

 いろんな意味で、家康は凄味のある人物だと言えるでしょう。

 ただ奇しくも、「漢」と「江戸幕府」という中国と日本の歴史を代表する国を興した二人がともにこういう逸話を持っているというのは、偶然ではないような気がします。

 公平を貫くことは実は容易ではありません。

しかし、公平を徹底することができれば、「公平の威力」はすさまじいものになるのは、このような歴史が証明しているところだと思います。

逆に「不公平の怖さ」も歴史が証明をしています。それに気づかない者は遅かれ早かれ必ず人の信頼を失って没落していくのです。

 昨今の我が国の政治においても、これまでには考えられないような不公平な事が散見されるようになりました。

政治だけでなく、メディアが束になって不公平な措置に拍車をかけるような偏った報道を行っているのにも、気づかれている人がいるかと思います。

政治権力を持つ政府やそれを実質的に動かしている人々、そして極めて大きな社会的権力を持つメディアや、最近ではビックテックなどの巨大プラットフォーマーたちが人々に対して不公平な活動を行っている事は、やがて多くの人たちが知ることになるのは間違いありません。

すでにその兆候も出てきています。歴史を振り返れば、こういう事には必ず近い将来揺り戻しがあるはずです。

不公平な事を甘んじて受け入れている人たちの気持ちは、決して時間とともに緩やかに消え去るようなものではないからです。

 私たちの暮らしの中では、そんな生死にかかわるようなことはありませんが、

 それでも実際に「公平を欠いてしまっていることはないか」「そのために人を遠ざけてしまっているのではないか」ということは一度考えてみると良いように思います。

 あなたの周りに人が集まるヒントになるかもしれません。

今後も皆さんのお役に立つ情報をアップしてまいります。

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