世間虚仮 唯仏是真
「世間虚仮 唯仏是真(せけんこけ ゆいぶつぜしん)」というのは聖徳太子が遺した言葉とされています。天寿国曼荼羅(てんじゅこくまんだら)という繡帳(しゅうちょう:刺繍がされているとばり=垂れ布)に書かれています。
天寿国曼荼羅は聖徳太子の妃(きさき)が死去した後に往生して行った場所とされる「天寿国」の様子を刺繍(ししゅう)で表現したもので、阿弥陀如来が住む極楽浄土の様子が描かれています。鎌倉時代に法隆寺の蔵で発見されたもののようです。
つまりあの世(極楽浄土)へ行った聖徳太子からの言葉として伝えられたものということになるでしょうか。
「世間虚仮 唯仏是真」の意味は「この世の物事はすべて虚構であって仮のものであり、ただ仏の教えのみが真実である」というものです。
仏典ではよくこのような思想が語られています。
たとえば般若心経に出てくる「色即是空 空即是色(しきそくぜくう くうそくぜしき)」は「物質的なものは実は実体を持たず、実体を持たないものが物質的なものとして実は存在する」という意味に解釈することができますが、
これなどはこの「世間虚仮」と同じような思考に基づくものという事ができます。
要するにどちらも、「この世界の物事には実体がなく仮のもの(虚構)に過ぎない」という事を伝えるものだと言えます。
量子力学の研究結果と見事に符合する
聖徳太子の言葉は、もちろん後半の 唯仏是真という部分がありますので、般若心経ほどストレートではありませんが、仏の教え、つまり「正しい生き方についての考え方」こそが真実ということは、この世界の物事に実体がないということから帰結される重要な結論なので、
仏教によって人々に秩序を持たせて国を治めていこうとした聖徳太子の政治思想からは当たり前のことになるかと思います。
それよりも注目すべきことは、これらの言葉と符合する研究結果が最近の量子力学の学問によってもたらされてきていることにあります。
量子力学の分野では「波動と粒子の二重性」などの発見がされた結果、「万物は人間が意識したときに初めてその状態が確定する」という事が、どうも真実らしいというところまで解明が進んできています。
そして多くの研究者が「この世界が仮想現実であること」を主張しています。
私たちのほとんどが、色即是空も世間虚仮も、あくまで理念的な意味でとらえてきました。
それは、「死んでしまえば何もなくなってしまうから、あってもそれはいずれ失われるものに過ぎない。だからお金とか財産のようにあの世に持っていけないものにすべての価値を見出すのは実は意味がない」という思考であったはずです。
しかし聖徳太子のこの言葉は本当にそれだけではなく、実は本当の意味でのこの世界の真理を言い当てていた可能性があるのかもしれません。
聖徳太子については「10人からの話を同時に聞き分けた」とか「未来を予測できた」というような超人伝説が残っていますが、ひょっとすると、その聡明さは私たちの想像を超えていたのかも知れません。
というよりも釈迦にしても聖徳太子にしても、哲学的な思考を究めた人間は、この世界の真理を量子力学などというものなしでも、言い当てることができるようになったのかも知れない、そんなことを考えてしまいます。
再度 唯仏是真について
そんなことを考えていくと唯物是真は本当に仏教の普及のためだけの言葉であったのかという疑問もわきます。
上記のように仏の教えである「正しい生き方についての考え方」こそが真実という意味でとらえれば、現代の私たちにも当てはまる考え方になりますが、
聖徳太子は当時において、「この世界は正しい生き方を学ぶ場所」であり、そのためにこの仮想世界があるということを知っていたのではないかということを、つい思ってしまいます。
当時の政治状況やまだまだ未開の国であった倭(日本)において、十七条憲法、冠位十二階を始め対外政策においても「日出る処の天子、書を没する処の天子に致す 」という言葉を隋の皇帝に送るなど、常人では成しえないような交渉を行った彼は、この世界の真実まで見通していたのではないかと考えるのは行き過ぎなのでしょうか。
その前後の時代の野蛮なイメージと比べて聖徳太子の時代だけがかけ離れて文化的に見えてしまうため、そんなことを感じています。
仏教は式典や儀礼ではない
こんなことを言うとお坊さんには叱られそうですが、現在日本で行われている冠婚葬祭における仏事と、釈迦の悟りを元にした本来の仏教の教えとは直接の関係はないと考えています。
もちろん教祖釈迦の教えを元に発展してきたのがわが国の仏教界ですから、制度的には当然継承し続けていると言えるのですが、本当の意味は式典や儀礼の有難さにあるのではありません。その価値は真に世界を救おうとしたその精神性にあります。
どんな組織でもそうですが、ピラミッド型の上意下達の組織になればなるほど、大切な事を見失いがちになります。宗教団体においてもそれは同じ危険があるかと思います。
人々が宗教を有難く感じるのは、それによって自分の心が救済されることを実感できるからです。
その意味では聖徳太子のこの言葉はとても深みがあり、それを知る人にこの世界のしくみというものを考える機会を与えてくれるものだと思います。
どうか宗教を行う方は、聖徳太子の思想というほどではなくても、世界の人々が幸せに生きることができるための大きな世界観をぜひ語ってほしいものだと思います。
また、こういう深い考え方を示す先人の言葉はほかにもたくさんあります。
仏教典や聖書に記された言葉は、ただ読むだけだと何気ないものに感じられるものも多く、当たり前のように聞こえるものも多いのですが、その背景や意味を調べてみると、実は学ぶべき真理を伝えていることがあります。今後そういった言葉をまたお伝えしていければと思います。
順番を間違えている
この世間虚仮 唯仏是真と言う言葉は、実は物事の思考の順番を示しているものかも知れません。
私たちはまず実体世界を前提として物事を考えます。
「食糧がやってきた(実体)」「だから他人に先立って食糧を買い占めよう(実体を元にした思考)」
でも本当はまず先に思考があり、実体はそこから作られていくものではないでしょうか。
「食糧があって有難い(思考)」「余分に頂いてはいけない。他人にも分けてあげよう(思考)」→皆がそうすれば食糧難は来ない(実体)
こう書くと、「皆がそうするわけがないから自分だけ飢え死にする」という批判が当然あるかと思いますが、それが実体であれば、思考が間違っていたということになりませんか?
「食糧があって有難い(思考)」「余分に頂いてはいけない。他人にも分けてあげよう(思考)」「皆がそうできるようにする方法を考えよう(思考)」→食糧難は理論上は回避できる(実体)
このように考えると、実はすべては思考から始まることがわかります。実体が上手く思った通りに行かないのは、「実体が悪い」のではなく「思考が足りない」という事に気が付くと思います。
もちろんあらゆることを完全にうまく行かせる思考法などは存在しないでしょう。AIでも無理です。
だから思考が届かない事、つまり自分の手の届かない範囲の事は「あきらめる」ということになります。「あきらめる」と書くと悪いように感じるかもしれませんが違います。
「あきらめる」を漢字で書くと「諦める」となりますが、仏教用語ではこのことを「諦観(たいかん)(通常の読みはていかん)」と呼びその語源は「あきらかにみる」ということにあるそうです。
そうやって自分のできる範囲で自分の理念に従って生きることをすれば、自分のできる範囲で思うがままに世界が構築されていくということを、仏教では教えているのではないでしょうか。
順番はあくまでも「正しい思考が先」で「実体は後から」という意識でいることが大切なのだと思います。順番を間違えるなということを世間虚仮 唯仏是真は示す言葉なのかも知れません。
今後も皆さんのお役に立つ情報をアップしていきます。