にほふ(匂ふ)の元々の意味
万葉集や古今和歌集で「にほふ(匂ふ」という言葉が時々登場します。
現代仮名遣いでは「におう」になりますが、文字通り嗅覚的に「においがする」という意味では元々なかったようです。
万葉集ではほとんどが「照り映える」という視覚的な美しさを示す言葉でした。
たとえば有名な大伴家持の「春の苑 紅にほふ 桃の花 下照る道に 出で立つ娘子」という歌の「にほふ」は目で見て桃の花(と乙女)が大変美しいという意味で解釈されています。
*「はるのその くれないにおう もものはな したでるみちに いでたつをとめ」
*「春の苑の 紅の色で咲いている桃の花の下で、道にたたずんでいる乙女よ」
元来「にほふ」は「赤い色が表に出てきて輝くような色彩である」というような意味合いだったと言われているようです。
次第に嗅覚を表す言葉に
たとえば「紫草のにほへる妹」という表現がありますが(額田王に対する大海人皇子の歌)
「紫草(ムラサキという植物)のような匂いたつような美しいあなた」という意味で、これも視覚的な美しさを伝えるものとなっています。
最初にこの表現を見た人は、つい「におい=香りがする」と思い込んでいるので、「いいにおいがする美人」と思ってしまいがちですが、実はそういう事ではないのです。
しかし次第に、その直接的な香りを表す意味でも用いられるようになったようです。
「人はいさ 心も知らず ふるさとは 花ぞ昔の 香ににほひける」 紀貫之
これは古今和歌集の選者の一人でもある紀貫之の歌った有名な歌ですが、「人の心は変わってしまったのかどうかもわからないが、慣れ親しんだこの土地では、梅の花が昔と変わらず素敵な香りになって匂っていることだ」というものです。
そして、この場合の「においける」は梅の実際の香りを言っているのです。
故郷では昔と変わらず梅の花の香りがするというイメージが広がってくる大変素敵な歌ですが、目に見える梅の美しさ(もちろんそれもありますが)というよりもむしろ嗅覚の部分のイメージを持てるものだと言えます。
おそらく昔の人は元々の言葉である「にほひ=赤い色が表に出てきて輝くような色彩である」ということから桃の花とかをみて「ああ、すてきなにほひが見て取れるなあ」と思っていたのでしょうが、
大体においてきれいな花や、それにかけて美しいものや人にこの言葉をつかっているうちに、すごくいい香りがすることについても、誰かが「『にほひ』は香りの場合にも使うと素敵じゃないか」と思ったのかも知れません。
万葉集に詠まれる「にほふ」のほとんどの例は「照り映える」という視覚的な意味ですが、わずかに嗅覚の「にほひ」を用いた歌があるそうです。
この点は、いつも渥美半島万葉の会でご講演をしてくださっている、花井しおり先生の『万葉集一日一首』に詳しく出ています。興味のある方はぜひ一読されることをお勧めします。
そういう事なので、そもそも最初から両方の意味があったのかも知れませんが、あれこれ考えるてみると、昔の人が歌を通じて、言葉と言うものに大いにこだわりをもって、四季の移り変わりや自然、そして人の心について色々深く考えていたのだということを感じます。
日本の文化は本当に凄いと改めて思わざるを得ませんね。
今後も皆さんのお役に立つ情報をアップしていきます。