読解問題にもレベルがある
問題文の読解がポイントになる問題としては、たとえば数学の方程式の問題であれば、
単純な整数の計算問題から始まり、カッコがある問題、小数の問題、分数の問題、それらの混合問題、計算の利用の初歩、食塩水や長文のややレベルの高い問題、初手の内容を聞く応用問題・・・
基本の基本から超ハイレベルまで無数のレベルがあります。
学習をする生徒も、問題を見ただけで一目でそのことはわかります。
これに対して国語のオーソドックスな読解問題は、日本語であるために、
どうしても「何とかなる」という先入観を持ってしまいがちです。
そのため「何となく」解答をして、正答にたどり着かないということがよくあります。
また復習についても、数学のようにはっきりとした理由がつかみにくいので、しっかり分析をせず、
「よく読まなかったから」で済ませている生徒は実に多いと思います。
これでは、いつまで経っても正答を書けるようにはなりません。
生徒がこのような事態に陥る原因の一つとして、生徒自身が読解問題の難易度のレベルを見誤っているということがあります。
割と自分が思っているよりも、読解問題は易しいことが多いのです。
最も易しい読解問題
たとえば
「~について述べている言葉を、漢字四字で抜き出しなさい」 *解答 都市開発
というような問題があります。
普通、このタイプの問題は極めて易しい部類に属します。
「漢字四字」というのがヒントになっているからです。
文章の中から四字の漢字で書かれているものを選んで、一番内容の近いものを選べばよいのです。
ところが、このタイプの問題でも抽象的に考えて解答ができない生徒は多いです。
解法を自分で考えて候補を絞りこむということができないのだと思います。
でもやり方をマスターすれば必ず正答できるようになる問題です。
次に同じ抜き出し問題で、字数が決まっていて前後に文がついているタイプの問題もあります。
たとえば
「時代は【 二字 】に変化して、若者たちが流行を【 二字 】していくようになった」 *解答 劇的・先導
というような問題です。
この場合も読解が苦手な生徒は、手がかりを探すこともなくただ考えて答えを出そうとします。
その結果、文自体が不自然でつながりのないものになったりしますが、それが正しいと思ったりしています。
この手の問題も、ヒントが与えられているのと同じです。
問題文の文章の中で、カッコの前後にある「時代は」「変化して」「流行を」という言葉をまず探して、そこに問いと同じようなつながりの文がないかを調べます。
それでピタリと合っていれば、すでにそれが正解です。
難易度を上げて若干文を変えてある場合もありますが、文の意味をきちんととれば対応できます。
ただ前後にある言葉自体がどこにもないというタイプもありますので、その場合は文脈の流れや趣旨の読み取りから考えるしかありませんが、
その場合でも字数が指定されていて抜き出しならば、まだ比較的簡単な部類に入ります。
指示語の問題も易しい
以前書いたことがありますが、指示語の問題も普通かなり易しい部類に属します。
「『それ』が指し示しているのは何か」というような問題です。
①指示語より前にあることが多いので、前を探してみる
②選んだ言葉を指示語と入れ替えて意味が通じていれば正しい
というやり方が基本です。
「学校には大きな時計があった。それを生徒たちは『ビッグクロック』と呼んでいた」
という文であれば
①で「それ」より前の文から適切そうな言葉「大きな時計」を選び
②「それ」に入れ替えると、「大きな時計を生徒たちは『ビッグクロック』と呼んでいた」となって自然に意味が通るので、正解となります。
*抜き出しでなければ「学校にあった大きな時計」でもOKです。
難易度が上がると、答えが指示語より後ろにあることもありますが、小中学校で出題されるレベルでは、大半は前に出てきます。
やり方を間違えずにやればほぼ100%正答できるようになります。
なぜ正答できないか、その真相とは?
もちろん大学受験の読解などでは、このようなものでは通用しない実質的な読み取りによる思考を問われる問題が出てきます。
でもそれでさえ、問題文の段落や部分の内容の方向性(ベクトル)を書き出したりして、キーワードをだたどっていけば答えにたどり着いてしまうようなものも多いのです。
ましてやそれ以前の段階の読解問題では、真に文章の深い意味を理解している必要がある問題などは、ごく一部でしか聞かれません。
だから読解問題は、実は「易しい」のです。
それを生徒が誤解していることが、「難しくて得点できないと悩むこと」のすべての原因だと思います。
どうしてそういう誤解が生まれるのでしょうか。
格調高い学校の国語の授業の弊害
学校の授業では、「作者の言いたいことは何か」「この描写の裏に描かれていることは何か」などということを、相当の時間をかけて調べたり討論をして学習をしたりします。
これは討論や思考を通して、文章の背後にある作者の想いや考えを読み取る力を育むという趣旨で行われていることなのだと理解しています。
しかし私は学生時代から、冗談なしに「作者の言いたいことなどは、作者しか知らない」と考えていました。
学校の授業を受けているときも、教師の考えている「作者の言いたいこと」があまりにありきたりで、「そんな薄っぺらな解釈でいいのか?」と疑問に思うこともありました。
「その解釈とは別の解釈も複数できるのに、多数決なんかで決めていいのか?」とも思っていました。
だから授業で延々と時間を書けて「作者の考え」を討論することは、あまり意味がないと思っていました。
それよりも文面自体からどう判断するか、その手法(読解法)を教えた方が、よほど役に立つのにと思ったものです。
テストや受験での読解とはそんな高尚なものではなく、著作の文面から趣旨を類推するだけのものと思います。
そしてそれはあくまでも類推です。
また学校や受験で評価される「国語の力」は、誰かが作った国語の問題に定型的に解答をする力に過ぎません。
真の国語力をテストで問うことなどできないのに、学校の授業ではずっと「真の国語力」を育てようとするので、
テストのときには、授業でやったことを書いたノートを丸暗記で書こうとする生徒が続出してしまうのではないかと思います。
「授業に真剣に取り組んだか」は試せますが、本当にそれだけでいいのでしょうか。
真の国語力をつけるためには、自分でたくさん本を読んで身に着けていくのが最も効果があります。
授業だけでは、到底力をつけさせられるというようなものではない気がします。
そして、得点で評価できるようなレベルの低いものや、スケールの小さいものでもないと感じます。
ある面ではきらりと光るセンスがあるかと思えば、「こんな行間読みもできないのか」というような感じで、
一人の実力を見るのでさえ様々な面がありすぎて、一概に数値で評価しきれるものでもないのです。
「100点どころか1万点のレベルに感じられる国語力があるかと思えば、陳腐すぎてマイナス100点に感じてしまうこともある」そんな世界ではないかと思います。
皆さんも過去に文豪と呼ばれる人の作品を真剣に読んでみて、その圧倒的な表現力や深さに驚かれることがあったのではないでしょうか。
あくまで私見になりますが、一朝一夕にたかだか授業で教科書を縦横にして検討をしたくらいで、そんな力がつくとも思えません。
これに対して、人から学ぶことができるものは読解法(問題を解く手法)です。
テクニックに過ぎませんが、こちらについてはやり方を覚えれば飛躍的にできるようになります。
私は、自分に真の国語力があるかどうかはわかりませんが、現代国語の読解問題ならば、大学受験の頃にはほぼ間違える問題はなくなっていました。
入試でも現代国語は複数の受験でどれもほぼ満点だったと記憶しています。
そんなことができるのは、それが誰でもマスターできる技術だからです。
文豪の持つ真の国語の力とはまったく違うジャンルの技に過ぎないからです。
文豪を超える作品を書くことは大変ですが、答えのあるテストに正解することはそれとは比べようもない易しさです。
しかし学校の授業においては、その目的が「真の国語力」アップにあるため、
そのことを念頭に置いた本格的な授業をと先生たちが意気込むため
読解法の指導に割く時間が極めて少ないものになっていることが、実際にはとてもアンバランスです。
もちろん読解法は、塾でしっかり教えるのでいいのですが、
生徒は学校の国語の授業を受けて「読解は高尚なもの」「真に理解をしないと解答は出せないもの」と思い込んでしまっています。
真の国語力と、単なる読解のテクニックを分けて考えられなくなっているのが、すべての原因ということです。
だからまず、国語の読解が苦手な生徒は、「読解は易しい。やり方を覚えれば必ず正解が出せる」ということをしっかり頭に入れることがスタートです。
その上で問題文には必ずヒントがあるので、それを探す習慣をつけていくのです。
何も文学者になるのではありません。生徒に必要な事は国語のテストや受験で正解を出すことでしかないのです。
それができさえすれば、学校の先生は「国語力がある」という評価を必ずしてくれるのですから。
もちろん文学を志す人はまた別ですけどね。
今後も皆さんのお役に立つ情報をアップしていきます。