心は蛇蝎のごとし
「悪性(あくしょう)さらにやめがたし こころは蛇蝎(じゃかつ)のごとくなり 修善(しゅぜん)も雑毒(ぞうどく)なるゆえに 虚仮(こけ)の行(ぎょう)とぞなづけたる」という親鸞の言葉が『正像末和讃』の中の『悲嘆述懐和讃』に記されています。
浄土真宗の祖・親鸞(しんらん)はこの言葉をどのような趣旨で述べたのでしょうか?
直訳すると、「人の心の本性は、欲や怒り腹立ち嫉み妬みであり、それらがいつも心の中にあって無くなることはない。心というものはまるで蛇(へび)や蝎(さそり)のようなもので、いくら善を装ってみても、毒が混じっているために偽りのものとなるから、嘘いつわりの行いだと名付けたのだ」という意味になります。
別の所で親鸞は、「凡夫というは、無明煩悩われらが身にみちみちて(満ち満ちて)、欲もおほく(多く)、いかり(怒り)、はらだち(腹立ち)、そねみ(嫉み)、ねたむ(妬む)こころおほく(多く)ひまなくして、臨終(りんじゅう)の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえず・・・」という言葉も述べています。
これほど極端だとは実際思いませんが、それでも誰もが「そうかもしれない」という感想を持つことでしょう。
親鸞は、偽りのない人の心の真実をよく理解していたことがわかります。
内観
「内観」という言葉を聞いたことがあるでしょうか。
簡単に言うと「自分の心の中を見つめる」ということです。内省と言うと「反省」と言う意味が入ってくるので、ここは単に「内観」ということをテーマに選びました。
ところでこの「内観」と言う言葉、私はてっきり普通名詞だと思っていたのですが、最近自律神経失調症などの療法として古くから「内観療法」と言うものがあることを知りました。
具体的な方法などについて詳しくはありませんが、興味がある方は一度検索してみるといいと思います。
そして歴史的背景として、浄土真宗の異安心の一派(親鸞とは考え方の異なる宗派)の行っていた「身調べ」というものがこの内観療法の元としてあるという話があるようですが、
以下の話はそういった宗教や治療法の歴史とは全く関係のないお話です。親鸞と「内観」の話なので誤解を招くかもしれないので先にお断りしておきます。
私が今回お伝えしたいのは、いわゆる普通名詞としての「内観」の話です。
自分の正体から目を逸らさないこと
人間が「蛇蝎のごとくである」と言った親鸞は、人間に絶望してこんな言葉を言ったのでしょうか。そこが知りたいところです。
でも自分からは言葉にしないだけで、言われてみればそれが真実だという事にはおそらく多くの人が同意するのではないかと思います。
普通の感覚では「そうだね、仕方ないね」だったり「本当にまあ、人間ってそんな風だね」というような感想を持つのではないでしょうか。
だとすると、洞察力のある親鸞が「人間はダメだ」という意味でこの言葉を述べるはずはありませんね。
むしろ「その事実こそしっかりと見なさい」という事を考えていたのではないでしょうか。
よく「自分自身に嘘をつかないで」と言うような言葉をドラマなどで耳にすることがありますが、「その自分自身が一体何か」という事自体が分からないという人が割と多いのではないかと思います。
「自分探し」とかいう言葉が昔流行りましたが、だからと言ってそれが探せたのかどうかと言えば、なかなか実際には難しかったのではないかと思います。
そういう面から親鸞のこの言葉はどうかと考えると、
「人間のうわべだけの善い面を虚栄に満ちたものと断定して、その正体を暴いてやるぞ」というその姿勢からは、
「これが本当の自分だよ。だから知っておけばもう大丈夫」そんな言葉が聞こえてきそうです。
「自分が正しい」と信じる苦しさ
私たちは、何かをするときにそれが崇高な理想に基づく事であっても、なにがしかの私心を併せ持つものです。
これはどんなに立派な人であっても偉人であっても同じだと思います。
もしそういう私心がなくて善良な事ばかりできるのなら、その人はまさに聖人ということでしょうが、現実問題としてそれは難しいと思います。
そしてそれは当たり前のことであって決して悪い事ではないと思います。やるべき本来の目標や実績、あるいは結果によってその人のその行動の価値は決まります。内心で判断されるものではないからです。
これとは逆に「自分は正しいことを常にやっている」と考えることの方が非常に危険です。
なぜかと言うならば、過去のすべての戦争や紛争は、必ずどちらも「自分が正しい」と主張して起こってきたからです。
戦争は「正義と悪」の戦いではなく、常に「正義と別の正義」の戦いです。
「自分は正しい」と信じ続け、「自分には人間的な弱さや間違いや私心はない」と信じれば信じるほど、その人は大変になってきます。
心に余裕を持てないからです。
だから、「人に悪心があるのは本来当たり前」という事をしっかり知って、「ああ自分は今こんなに善くない考えを持っている。いかんいかん」そう思い直すことが大切なのだと親鸞は言いたかったのではないでしょうか。
言い換えると「内観」のない正義心は嘘っぱちで、「内観」の上に立つ地に着いた考え方が、人が幸せに生きる秘訣という事を述べているのだと私は思います。
親鸞みたいな偉人が「オレは心の中では蛇や蝎みたいなワルかもって考えている」って知ったら、普通の人は「ああそうか、心の中なんてみんなそんなもんなんだ。気楽でいいんだ」って思ったでしょう。
そしてそれを考えている時に、自分自身を振り返ってみれば、この言葉を聞いた人は自分の心の中を見つめている(内観)わけです。
皆さんも親鸞の冒頭のこの言葉を読んだときに、「自分の心はどうかな」と内観したはずです。そしてそのことで救われませんでしたか?
だから返す返すも、この親鸞の言葉は見事としかいいようのない言葉なのだと思わずにはいられません。
今後も皆さんのお役に立つ情報をアップしていきます。